今日は友人が主催したグループ展に行ってきた

新章風景ついて 新章風景ついて

新章風景ついて

新章風景ついて


今日は友人が主催したグループ展に行ってきた
から、そのことを少し書こうと思う。けれど、ここで批評のようなことを書くつもりはない。出展作家さんたちがしていたように、僕もまた僕の背丈で書こうと思う。



僕が会場につくとトークショーの準備が整っていて、友人との挨拶もそこそこでトークショーが始まった。

展示の題名は「新章風景」という80年代生まれの写真家による写真展だったのだけど、新章という言葉にも表れているように現代における写真をテーマにしていた。

現代における写真というのは、とても難しい。

なにせこのiPhoneでも綺麗な写真が撮れるし、その発表の場もtumblerのように星の数ほどあるからね。写真は絵画に比べて簡単に撮れそう(ほんとうはそんなことないんだけど)だし、デジタルコピーも加工も簡単。一昔まえなら、職人芸のような緻密画もいまならボタンひとつで撮れてしまう。

誰でも写真家になれてしまうんだ。

現代写真家として、つまりプロや表現者として写真を撮る難しさはここに尽きると言っていいんじゃないかな。

その点、絵画やイラストにはタッチや色遣いのような“個性”を発揮する隙間があるけれど、写真におけるその隙間は非常に狭い。そのなかで「新しさ」や「独創性」はどこにあるんだろう。

今回の展示においてまず特徴的だったのは、出展作家さんたちがそのことに自覚的だったということだと思う。それは主催者さんの言葉を借りれば「写真をメディアとして扱っている」とも言い換えられる。

この写真をメディアとして扱うことは「現代アート」のようなものがあるとすれば、その業界では常識になっているのだけど、世の中に出回って僕たちの目に毎日のように触れる写真は、写真をメディアとして扱っていない。

いま、僕はこの文章を帰りの電車で書いているんだけど、少し視線を上げれば「京王のお歳暮」と書かれた広告の横にデカデカと、ローストビーフや金目鯛の鍋料理、その横にオードブルがあってワインも数本ならんでいる。

それらは当然、お歳暮の内容物を指しているのであって写真そのものについて、なんらかの意味を与えてはいないよね。“被写体”が美味しそうだったり、高そうだったりすることを意味している。

写真に写っているイメージが、その被写体のイメージそのものになっているんだ。

けれど、写真をメディアとして扱うとなるとその被写体をただもう一度紙に焼き直すだけで留まるわけには行かない。(と、言いつつ写真である以上、被写体のない写真もまたないのだけれど。)

つまり現代写真の目標は、その写真が被写体をただ写しとったものであってはいけない。その撮影行為や、展示、コンセプト、文脈…などなどの不透明な膜を幾重にも張り巡らせて、そのイメージが被写体そのものではないようにするんだ。

ひと昔まえの写真はむしろ透明だった、つまりそれが写真(真実を写す)であってその被写体は現実物であると見せかけていた。

今回の出展作家はその逆をしていた。新聞の見出しや、広告写真のように写っているものが「何」であり、「なんのために」撮られたものか一目で分かるような写真ではなかった。

当たり前のことだって?そうだね、君のように現代アートのようなものに少しでも関わっていればそうかもしれない。けれど、そうでない人たちにとっては驚くべきことだよ。

だって、彼らは写真といいつつ、心象風景や作家の行為そのものを撮ろうとしているんだから。もしくは、なにが写っているか分からなかったり、いつもは見逃してしまっているものをクロースアップして現実から解離してしまうんだから。

僕はここで、それぞれの写真家さんの写真について詳細に書くべきだろうか…

たしかに具体的に書きたい気もするけど、固有名を出したくもないんだ。なぜなら、僕のこの文章になんらかの価値を持たせたくないから。

だから、僕はいま脳裏に浮かんでくる作品についてだけ書こうと思う。もしこの文章を出展作家さんが見て、自分のことと思しきことが書いてあってもあまり気にしないでほしい。

それはあくまで、僕の目に写ったイメージであって客観的だったり、批評的な観点からみたものではないから。それに出展作家さんに聞きたかったり、言いたかったりしたことはあの場でみんな言ってしまったから、作家さんに向けてまっすぐここで書くこともないんだ。

まず、正面にあった作品。

それはパッと見たところカラフルなモノグラムのような写真だった。横が2メートルで縦が1メートルくらいで、上下の連作で下のものはモノクロになっていた。

そこにはビビッドで色とりどりな針金がいろいろな形に曲げられて、ざっと100本くらい絡まるようにして置かれていた。遠くからみると抽象模様のようだ。

でも近づいてみると、ある程度の太さをもった針金のようなものであるとわかる。それが立体的に絡まっているのだ。けれどその写真が奇妙だったのは、その奥行きにある。

作家さんに聞いたところその本当の(?)被写体は一本であり、その曲げ方を変えてそのたび毎に写真にとってPC上で合成して、色まで変えているというのだ。だから、まるでキュビズムの絵画のように遠近が狂っていた。

けれどより詳しく作家さんに話を聞くにつれて、この錯覚はキュビズム的というより、テクノロジーの発達によって生じた「現代的錯覚」と呼べるような気がしてきたんだ。つまり「プラネタリウムのような夜空」だとか、「映画のような災害」のような、いわば本物と虚構が転倒した錯覚のようなんだ。

作家さんはお仕事で3DCGを扱っていると仰っており、あるときこの作品につかうことになった針金を手にもって曲げてみたところ「これは3Dだ!」と感じたらしい。3DCGの方が現実を模倣する技術であったのに、彼の中ではいつのまにかそれが反転してしまっていたんだね。

デジタル・ネイティブという言葉は死語になりかけているけれど、僕らの身体は数十年前に比べると明らかにデジタル・ネイチャーとでも言うべき環境に投げ出されている。AppleのRetina Displayという名称が特徴的だけど、ディスプレイが網膜(自然物)の解像度に近づいているのだ。

iPhoneで4K画像を録画して、MP3で圧縮された音源を聞き、Googleで世界中を旅し、FaceBookで誰とでも友人になれる。デジタルがアナログにとって変わって、第二の自然になりつつある現代にあって、彼の作品はその2つのものの奇妙な転倒を見事に表していたように思う。

この倒錯的な立体作品、と僕は平面作品でありながら「立体作品」と呼びたくなる作品(少なくとも、作家さんにとっては立体作品なんじゃないかと僕は邪推している)が展示室の正面に飾ってあった。

その左手の壁には先の無機質で記号的な作品とは正反対な、詩的でエモーショナルな小ぶりの作品群が無造作に、けれどある緊張感をもって展示されていた。

その内の一枚はまるで肌寒い夜空のようであり、別の一枚は陽だまりで描かれた水彩の水玉模様のようであったかと思うと、今度は早朝の雪景色のようだった。

けれどよくよく見ると、どれもガラスに写った水滴であることがわかる。彼女に聞いたところ(この作品は一目で女性作家のものであるとわかる)これは実家に帰ったときに、窓についた水滴が気になって撮り始めた連作であると言う。

なるほど!と僕は腑に落ちた。彼女は自作について語るときに「よくわからないんだけど」と何度か口にしていたけれど、たぶんその理由はこの「腑に落ちる」という感覚にあると思うんだ。腑に落ちてしまったものは、説明できないからね。

ユングという人が「人は理解できないものを説明したがる」と言っていたけれど、彼女の場合はその逆なんじゃないかな。まず何かが腑に落ちて、それを集めてみる。そこに説明はいらない。

気になって僕は彼女のポートフォリオをざっと見たんだけど、どれもとても腑に落ちる作品だった。デザイン会社IDEOの言葉を借りれば、without thinking (考えなし)でわかってしまうものだと思う。

でも、これじゃあまりにも主観的すぎるから、彼女の言葉を借りつつもう少し補足すると、彼女は「境目」に興味があると言っていた。たしかに被写体は「ガラス」という、外と内とを曖昧に分ける境目だ。

窓を見ると、まず外が見えて、次に僕の阿呆ヅラがガラスに写ってたりする。けれど彼女が写したのはそのどちらでもなくて、まさにそのガラスがガラスとしての役目を果たしていない時なんだ。

水滴で曇ってしまったガラスは、透明であるべきという目的を失っているからね。

トークショーのとき彼女に対してある男性が「では、その境目とはなんですか?」と定義を聞いていたけれど、僕は苦笑してしまった。案の定、彼女は「境目はその時々で変わります」と言っていたけれど、男性は納得できなかったみたいだった。どうして男ってなんでも固定したがるんだろうね。

彼女の写した境目はその瞬間だけ境目だった。もしくは、透明と不透明の境目を写したもの。

次の瞬間にワイパーがかかってしまえばガラスは本来の透明なガラスにもどり、境目はなくなってしまうもの。僕にはそんなふうに見えたよ。

彼女はトークショーのとき、今回の作品群は「うまく話せないのだけど」と前置きしつつ「他の作品とは違って、感情的ではなく、機械的に写した」と仰っていた。けれど僕がポートフォリオを拝見したところ、それまでとまったく同じスタンスで撮っているように感じたので、個人的に聞いてみたら「そうなんですよ!よくわかりましたね!」とお褒めいただいた。

作家さんがいると、作品だけからではわからないことが分かるのがなにより嬉しいよね。僕は基本的にこういうコミュニケーションが好きなんだ。

この文章もだいぶ長くなってきたから、最後に友人の作品について少しだけ書いて終えよう。

この展示の企画をしたのが彼であり、この「新章風景」という題を考えたのも彼だ。僕はこの題はとってもいいと思ったのだけど、その意図についてより知りたくて、作家さん全員に「みなさんの思う風景写真とは何ですか?」と聞いたところ、彼は「風景は流れてくる」と言っていた。

確かに日本語の風景というのは、風という言葉が入っていてとても流れを感じる言葉だよね。英語のLandscapeに比べると、流れるという意味合いが強いように思う。

その流れていくものに抵抗するのが写真だと彼は言っていた。この捉え方についてはいろいろと反論があるのかもしれないけれど、少なくとも彼の作品「Maps」(という名前だっと思う)はまさにそのような“流れ行く風景”への「抵抗」として現れていた。

この抵抗という言葉は少し補足するべきかな。抵抗というのは反対や対立ではないからね。ちょうど電子回路に使われる抵抗器のように、一時的に流れを停留させるという意味だと僕は理解している。

というのは彼の作品はまさにその遅延を切り取っているからなんだ。作品の展示形態としてはiMacのスクリーンセーバーとして30枚ほどが数秒毎に切り替わっていた。その画像はGoogleのストリートビューから切り取られたものなのだけれど、ストリートビュー内で移動するときに生じる読み込み遅延の状況をスクリーンショットで写したものなんだ。

ある点はしっかりと焦点のあった風景写真であり、ある部分は鋭い単色の線として表示されている。もしくはモザイクであったり、画像が欠けていたりする。デジタルネイチャーフォトとでも名づけたくなる写真だった。

それがMacのデスクトップを流れるようにして現れては消え、現れては消えする様子は、僕たちが画面の前でいつも目にしている画像の盲点を見ているように感じたよ。

インターネット上の画像の殆どは破綻なく成立している。けれど読み込み途中の画像は、その対象もそれ自体も、色の集合、引いては0と1の集合でしかない。それが読み込み遅延の瞬間にだけあらわになる。彼の作品はまさにその瞬間を切り取っていたんだ。

いわばデジタル画像がもつイリュージョンのタネを明かしてくれているのだ。それが問うのは、デジタル画像とはなんなのか?そして写真とはなんなのか?と問うことに他ならない。

僕はそのMacに写されている永遠に遅延した風景写真を眺めながら、そんなことを考えた。
  1. 逆に作家にとってはきのくんみたいな人は良いレファレンスなんだろうなって思ったよ

    返信削除
    返信
    1. いつも見てくれてありがとう!
      そうだね。そうなれると嬉しいなぁ…

      削除